【藤原肇SS】藤原肇「大事なのは、焦らない事です」

1:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 18:01:50.81 ID:tMOKBuPHo

 「もう静岡か」

他愛も無いお喋りをしているだけで、時間は飛ぶように過ぎていって。
先ほど東京駅を発ったと思えば、もう静岡にまで差し掛かっていました。

 「楽しい時間ほど、過ぎるのが早いと聞いています。相対……えっと」

 「相対性理論。薬缶と恋人の例えで有名だな」

迷っている間にPさんが答えてしまいました。
でも、そこまで知っているのであれば。
この二人の旅行も、私がそれを口にしようとした意味も、察してもらいたいものです。

 「すっかり旧式とはいえ、流石に新幹線は早いな」

――せっかくですし、のんびり向かいましょう。

最新の新幹線で行けば、ほぼ半分の時間で着いてしまいます。
ですが今回はお仕事ではなく、夏休みの旅行。
急ぐ旅でもありませんし、こちらの席を取る事にしました。
予想した通り、空席の目立つこの時間帯の車内は落ち着いています。

2:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 18:38:09.02 ID:tMOKBuPHo

 「そろそろ昼にしようか」

 「ええ」

Pさんが袋から取り出したお弁当を手渡してくれます。
四角い弁当箱の端からは、何故か一本の紐が伸びていました。

 「これは……」

 「ん、初めて見るのか? 強めに引っ張ってみろ」

 「はい」

言われた通りに引っ張ると、ぷつりと紐が外れました。
一呼吸置いて、しゅうしゅうという音が聞こえ、端から湯気が漏れ出てきました

 「わっ。加熱用の仕組みだったんですね」

 「ああ。一人の時に食べようとすると少し恥ずかしいけどな」

 「石灰と水……でしょうか」

 「正解だ。化学反応で起こる熱を利用してる」

注意書きの通り、窓の下から起こした卓へ置いてしばらく待ちます。
稲荷寿司を頬張りながら、Pさんが思い出したように言いました。

 「反応式、答えられるか」

 「ええと、H2Oと……あれ、そういえば石灰って何なんでしょうか」

 「酸化カルシウムの別名だ」

化学の抜き打ち試験に、生来のんびり屋の頭を懸命に働かせます。
生成物は水酸化カルシウムになるでしょうから、うーん……。

ようやく正解を導き出した頃には、お弁当もすっかり温まっていました。
相対性理論って、便利ですね。

3:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 19:10:13.91 ID:tMOKBuPHo

 「Pさんって、理系だったんですか?」

温かい山菜おこわを頂きながらPさんに訊ねます。
以前話を訊いた時は体育会系だ、と頭を掻いていましたが。

 「ああ。大学では……何と言うか、電子系と化学系の中間みたいな分野を専攻してた」

 「どんな研究をなさっていたんでしょう」

 「超伝導、と言えば伝わるか」

 「キンキンに冷やすと磁石が浮く、といった感じでしたか」

 「概ね間違ってはないな。俺は超伝導体の物性を研究していた」

 「うーん……文系の私には少々難しいお話ですね」

学校の成績に関しては、特別秀でている訳でも、特に劣っている訳でもありません。
ただ、化学さんや数学さんとはどうにも折り合いが悪く……古文さんなどと仲良くさせて頂いています。
アイドルと同じように、みんなの人気者を目指すべきなのでしょう。
この道もなかなか険しいものです。

 「分かりやすい所で言えば、リニアモーターカーだな」

 「それなら聞き覚えがあります」

 「俺が生きている内はともかく、肇ならまず乗れると思う」

 「きっと大丈夫ですよ。開業したら、また一緒に乗りに行きましょう」

何年後なのか、何十年後なのかは分かりません。
でも、いつかまたPさんといっしょにこうして旅行できたら、それはそれは素敵な事だと思います。

5:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 19:45:13.83 ID:tMOKBuPHo

 「肇。富士山が見えてきたぞ」

見覚えのある橋を渡り始めると、富士山の姿が綺麗に見渡せるようになりました。

 「登った事があるんでしたよね」

 「ああ。講義をサボってな」

 「登山部だったんですか?」

 「いや。個人でたまに登っていたんだ」

 「そこに山があるから、ですか?」

背丈に負けないぐらいがっしりとした体つきは、登山で鍛えられたものなのでしょう。
近くでPさんの背中を見つめていると、何だか山のように見えた事もありました。

 「英文やら化学式を見ていると、たまにどうしようもなく何も無い景色を見たくなってな」

Pさんが目を細めて、太陽に照らされる富士山を眺めます。

 「学会前に論文を抱えたまま登った山は最悪だったよ」

 「ふふっ」

最後の一つを口へ放り込んで、弁当箱を片付け始めます。
今度、登山へ連れて行ってもらうのも良いかもしれません。

 「なぁ、肇」

 「はい」

 「他の人を誘わなくても良かったのか。楓さんとか、アナスタシアさんとか」

7:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 20:16:13.79 ID:tMOKBuPHo

私の地元は星がよく見えますから、アーニャさんや泰葉さんにも声を掛けました。
声を掛けたのですが……

 『――ズヴェズダ、ですか? はい、見てみた……ンン? アー、ごめんです。その日は予定がありました』

 『――へぇ、綺麗に見えそうだね……えっ、あ、一緒に? えーと、そういえば用事があったんだった』

 『――あら。肇ちゃんのお誘いなら是非……えっ? そうなの。ごめんね、実は用があるのよう……ふふっ』

 「Pさんが引率について来てくれると言うと、何故だか皆さん突然用事を思い出して……」

でも、何故だか皆さん楽しげに笑っていて。
お土産を宜しくね、とたくさん頼まれてしまいました。

 「……俺はもしかすると、嫌われているのかな」

 「いえ、そんな事は」

 「肇も、無理はしなくていいからな」

 「きっ、嫌いな人を実家に招いたりしませんっ!」

Pさんの言葉に、焦ったように声を荒げてしまいました。
驚いたようなPさんの顔を見て初めて、自分が立ち上がっていた事に気が付きました。
口を開いて、けれど言葉は出てこなくて。
ゆっくりと椅子へ座り直します。

 「Pさんの事、ぜったいに嫌ったりしませんから」

 「……そうか。ありがとうな、肇」

消えそうな声で呟いた言葉に、Pさんがしっかり返事をしてくれて。
それをどうしようもなく、私は嬉しく感じてしまいます。

8:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 21:02:46.51 ID:tMOKBuPHo

そうしてしばらくの間、私達は無言のまま車窓の外を眺めていました。
けれどその無言は、決して居心地の悪いものではなくて。
いつの間にか到着まで眠ってしまっていたくらい、心地の良い空間でした。

……ちょっと、もったいなかったな。

9:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 21:47:31.09 ID:tMOKBuPHo

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 「初めて会ったが、肇のご両親、にこやかで優しそうだったな」

 「ええ。今日はいつにも増して。ふふ、Pさんが一緒だったから、でしょうか?」

 「さぁ、な」

去年は寝込んだままのおじいちゃんへ挨拶しただけでした。
改めてPさんが両親へ挨拶をすると、いつもよりいっそうにこにこと笑って。

……その後はお決まりの、報告と言う名の私の私生活暴露会です。
何故大人というのはひとたび集まると、本人を前にして赤裸々な思い出語りをするのでしょうか。
PさんもPさんです。
この前のライブはここが良かっただの、映画ではあの演技が素晴らしかっただの。
私のお仕事を嬉しそうに話す度、両親も嬉しそうに話をせがんで……。

 「……はぁ」

 「長かったしな。移動で疲れたか」

 「いえ。疲れたのはついさっきです」

 「……?」

大人になるのって、とても難しい事なのかもしれません。

 「そういえば、お爺さんは何処に?」

 「この時間はおじいちゃんの工房に籠っています。私も父も入れません」

 「……職人、か」

 「両親が優しいのは、おじいちゃんの影響もあると思います」

12:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 22:22:57.58 ID:tMOKBuPHo

おじいちゃんが厳しい分、両親は甘過ぎるくらいに優しくて。
私も将来職人を継ぐとすれば、まだ見ぬ子供には厳しく接するべきなのかもしれません。

 「親御さんが優しいのは、肇がとても良い娘だっていうのもあるだろう」

 「そうでしょうか」

 「ああ。俺も肇みたいな子供がいたら溺愛してるかもしれない」

 「…………」

 「どうした」

 「何でもありません」

 「何だか少し怒ってないか」

 「怒ってなんていません」

……子供、ですか。
子供にも女心があるという事を、この人は未だに理解してくれていないようです。

 「Pさんは、空でも見ていれば良いんです」

 「やっぱり怒ってるじゃあ……空?」

少し遅い夏休み。
秋の足音が聞こえ始めた岡山の空は、盛夏の頃より随分日差しも和らいでいます。

 「……良い天気だな」

 「そうですね」

男心と秋の空、と昔は言ったそうです。
今はそれを信じる気分ではありませんけどね。

17:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/27(火) 23:21:42.11 ID:tMOKBuPHo

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 「では肇先生、お願いします」

 「うむ……とでも答えるべきなんでしょうか」

いつもの作務衣に袖を通して、私達はおじいちゃんとは別の工房に居ました。
合うサイズが無かったため、Pさんはネクタイを外してワイシャツの袖を捲っただけですが。
……ちゃんと私服、持って来てるんでしょうか?

 「蹴ろくろは少々難しいので、今回は電動式の物を使います」

 「ケロクロ?」

 「足踏みで回すろくろです。おじいちゃんやお父さんはこれを使っていますね」

お互い向かい合うように座り、それぞれのろくろへ粘土を載せます。
幾らか手で慣らしてから、回転のスイッチを入れました。

 「手捻りよりは少しだけ難しいです。大事なのは、焦らない事です」

 「全くの未経験でも平気なのか」

 「いきなり複雑な形の作陶は厳しいですから、茶碗か湯呑を作ってみましょう」

 「どちらがオススメかな」

 「そうですね…………茶碗、が良いかもしれません」

 「よし」

ほんの少しだけ下心が顔を出して。
けれどPさんには気付かれなかったようで、ほっと胸を撫で下ろしました。

20:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 00:08:24.19 ID:KfXp6K5Jo

 「まずは指を水に濡らして、土を撫でてみましょう」

回転数を抑えめに固定して土が逃げないよう調整します。
力がある分、Pさんならこの速度でも問題無いでしょう。

 「思ったより、固いな」

 「Pさんも土もまだ慣れていませんから。すぐ気にならなくなりますよ」

しばらく土を捏ね回していると、Pさんも慣れてきたようでした。
参考にしてもらおうと、両手で土を可能な限り上へのばしたり、ぐっとそれを縮めたりします。
優しく、力を入れ過ぎずにそっと添えるように。
それを繰り返していると、いつの間にかこちらを見ているPさんの手が止まっていました。

 「…………」

 「Pさん?」

 「あ、いや何でも無い。何でも無いんだ、本当に」

何故だか少し焦ったような様子で、Pさんが作業を再開します。

 「あ」

当然ながら、土の形はぐにゃりと乱れて。

 「Pさん、大事なのは焦らない事、ですよ」

 「……そうだったな」

深呼吸を一つして、Pさんが再び土を捏ね始めます。
……先ほど、頬が僅かに赤く見えたのは気のせいだったのでしょうか。

21:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 00:38:01.24 ID:KfXp6K5Jo

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 「底は整えなくてもいいのか」

 「高台は後からでも付けられますので大丈夫です」

凛さん用の花瓶を捏ね終える頃には、Pさんの茶碗も形が見え始めていました。
やはり誰もがそうであるように、底の方が厚く、上るにつれて薄くなってしまっています。

 「難しいな。厚みを整えようとすると」

 「少し、力が入り過ぎですね。こうして力に逆らわないようにするとやり易いですよ」

Pさんが捏ねている茶碗にそっと両手を添えます。
土と水とで少し冷たくなったPさんの指先が、私の指先に触れました。

 「……あ」

 「あっ」

思わずぴくりと指先が跳ねて。
茶碗になりかけていた土が、ぐにゃりと歪んでしまいました。

 「す、すみませんっ」

Pさんに頭を下げます。
せっかく頑張って作っていたのに、私のせいで台無しにしてしまいました。

 「いや、気にしないでくれ」

 「でも」

 「肇だって言っていたじゃないか」

 「え?」

 「大事なのは、焦らない事。だろう?」

23:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 13:45:31.78 ID:KfXp6K5Jo

Pさんに言われて、思わず頬が熱くなりました。
自分の行った事を忘れてしまうなんて、先生失格ですね。

 「ええ、その通りです。もう一度、やり直しましょう」

 「ちょっとコツを掴めたからな。もっと上手く出来そうな気がするよ」

 「なら、もう少し応用的なやり方をお教えしますね」

何度でもやり直せるのが、陶芸の良い所です。
Pさんにもこの面白さが伝われば良いなと、土を捏ね直しながら考えていました。

24:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 14:26:13.90 ID:KfXp6K5Jo

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 「……出来た」

 「お疲れ様でした。見事な物ですよ」

 「先生のお陰だな」

 「ふふ、お世辞の上手い生徒さんですね」

新たに捏ね直して完成させたPさんの茶碗は、贔屓目を抜きにしても良く出来ていました。
言われなければ普段使いにしても分からないでしょう。
少々大きい気もしますが、Pさんの体格であればこれ位でちょうどいいかもしれません。

 「次はどうすればいいんだ」

 「乾燥と焼きには数日掛かりますから、後ほど完成品を纏めて郵送しますね」

 「という事は、これでおしまいか」

 「そうですね、仕上げはおじいちゃんのお弟子さん達に任せる事になります」

 「俺なんかの物に時間を取らせていいのか?」

 「言葉は悪いですが、人から預かった作品は良い練習になりますから」

よそ様から預かったものを、最大限活かせるように丁寧に仕上げる。
考えようによっては、アイドルのプロデュースに似ているのかもしれませんね、なんて。

 「模様はどうしますか?」

 「付けてもらえるのか」

 「ある程度であれば描いてもらえますよ」

 「どうするかな」

25:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 14:58:07.69 ID:KfXp6K5Jo

Pさんが捏ね終えたばかりの茶碗をしげしげと眺めて考え込みます。

 「茶碗の柄というと、花とかが多いよな」

 「はい。花鳥風月は典型的な図案ですね」

 「そうか」

しばらくの間目を閉じて、一つ頷くと膝を叩きました。

 「桜がいいな、夜桜が」

 「夜桜……ですか?」

 「ああ。米がいっそう白く見えるくらいの、薄墨色の桜がいい」

 「花より団子、ですか? ふふっ」

確かに、桃色の可愛らしい柄よりは夜桜の方がPさんに合っているような気もします。
綺麗な墨色を出すのはなかなか難しいのですが、お弟子さんには何とか頑張ってもらえるでしょうか。

 「では、そろそろお夕飯でしょうから先に上がっていてください」

 「良いのか? 悪いな、肇」

 「私は後片付けがありますので、後ほど向かいますね」

 「分かった。陶芸も、やってみると楽しかったよ」

 「そう言って頂けるのは嬉しいです、とても」

26:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 15:27:10.52 ID:KfXp6K5Jo

軽く会釈をして工房を出るPさんに軽く手を振って返します。
戸が静かに閉まって、それからやや大き目の足音が遠くへ去って行きます。

 「…………よしっ」

それが聞こえなくなったのを確認して。
頭巾をきゅっと締め直し、袖を捲り上げます。

 「急いで、でも焦らずに……!」

新たな粘土をろくろに載せて、手早く形を整えます。
茶碗の一つくらいなら、夕飯前に仕上げるのは朝飯前です。
……なんて。

 「ふふ……っと、危ない、あぶない」

どうやら私も、楓さんに影響されてしまっているようでした。

27:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 16:21:48.60 ID:KfXp6K5Jo

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 「釣り日和と言っていい日かな」

 「ええ、絶好の釣り日和です」

一夜明けた岡山は、涼やかな風が吹いていました。
ですがまだ本格的な秋と言うには遠く、日差しは昨日よりもやや強めです。
母に被せられた鍔広の帽子が私の胸まで濃い影を落としています。
Pさんの顔が見えにくいのは玉に瑕ですが。

 「方向からすると、前回の場所とは違うんだな」

 「ええ、前回は初夏でしたから。この季節はもう少し下流の方がよく釣れるんです」

 「釣りも素人なもんでな。宜しく頼む、肇先生」

 「頼まれましょう」

竿を揺らして、二人で山道をのんびりと歩きます。
午前の内からヒグラシが忙しそうに鳴いていて、あぁ故郷に帰ってきたのかと実感していました。

 「着きました」

 「ここか。紅葉には、まだ早かったかな」

 「来年は、もう少し後に来てみますか?」

 「ああ、今度こそみんなで紅葉狩りでもするといい」

 「ふふ、鬼さんが笑っちゃうかもしれませんね」

何処か遠くで、くしゃみの音が聞こえた気がしました。

28:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 17:22:07.08 ID:KfXp6K5Jo

 「今日は、ルアーフィッシングに挑戦してみましょう」

テグスにルアーを括り付けて、ぴんと川へ放ります。
Pさんも何とかルアーを括り付けて、川に放り込むのに成功しました。

 「ルアーというと、やはり掛かりにくいのか」

 「そうですね、生き餌より少し難しいと言われています」

 「釣れたら御の字って所だな」

 「難しい分、釣れた時の感慨もひとしおですよ」

もっとも、今日ルアーを選んだのはそれだけが理由ではありませんが。
餌の付け替えなどもない分、釣りの醍醐味を。
川のせせらぎを聴きながらのお喋りを、もっとゆっくり楽しめますから。
Pさんには内緒ですけれどね。

 「イワナが釣れる事もあるんです、ここ」

 「渓流の王様、だったか。もう少し上流に居るものだと思ってたが」

 「はい。ですが、たまにここまで下りてくる事もあるんですよ」

 「ビギナーズラックに期待しておこう」

 「運も実力の内、です」

二人並んで、布を敷いた岩に腰掛けます。
森の葉擦れと、川のせせらぎと、ヒグラシの鳴き声と。
遥か遠くの、微かな風鈴の音色が耳に届きました。

29:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 18:59:14.67 ID:KfXp6K5Jo

 「釣りは、虫との戦いです」

 「春なんかは大変だな」

 「夏は夏で、蚊が大変ですしね」

 「スプレーにも限界はあるからな」

 「ですから、この季節は良いんですよ」

空に目を向ければ、赤や銀のトンボがふわふわと浮いていて。
私より一段と高いPさんの頭にも一匹、留まっていました。

 「……肇?」

 「どうしました?」

 「俺はトンボじゃないぞ」

Pさんに向けて、くるくると指を回して。

 「ええ、真面目なプロデューサーさんですよね」

Pさんが目を回すには、私の魅力はまだまだ足りないようです。

30:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 20:16:27.08 ID:KfXp6K5Jo

― = ― ≡ ― = ―

 「逃したイワナは大きかったな」

 「ええ。とても抱えきれないくらいの大きさでした」

気付けば、辺りは夕焼けに燃えていて。
そろそろ帰るのにちょうどいい時間でした。
Pさんも、遠くに落ちる夕陽を眩しそうに見つめて。

寂しい、と。
そう思う事も、あるのでしょうか。

 「夕焼け小焼けの、赤とんぼ――」

何年ぶりでしょう。
ひょっとすると、小学校で習って以来かもしれません。

 「負われて見たのは、何時の日か」

私の声に合わせるように、Pさんが口笛を吹いて。

 「――留まっているよ、竿の先」

夕暮れの河原に、童謡が響き渡りました。

31:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 21:27:28.46 ID:KfXp6K5Jo

 「良い歌だった、肇」

 「ふふ、Pさんの口笛もお上手でしたよ」

 「鷹富士さんに習ったんだ。曲の打ち合わせなんかでも使えるからな」

私の曲を口笛で吹いて。
Pさんが可愛らしく口笛を吹くのは、何だか不思議と様になっていました。

 「改めて聴くと、いかにも昔の唱歌だな」

 「ええ。十五で嫁に、なんて、ちょっと想像出来ません」

 「肇は十六でアイドルになったけどな」

 「あれから二年。私も十八になりました」

 「ああ。あの頃に増して、肇は綺麗になった」

Pさんは時々こんな風に、照れるそぶりも見せずに私を褒め殺そうとします。
全くもって困ったプロデューサーさんです。
でも、そんな台詞を聞いて満更でもない私も。全くもって困ったアイドルなのかもしれません。
心の中で、私の顔をもっと照らしてくれるよう夕焼けにお願いしました。

 「十八と言えば、結婚出来ない歳でもありませんけど、ね」

 「まぁ、そうかもな」

私の顔が、夕焼けに紛れていますように。

 「Pさん」

32:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 22:26:49.28 ID:KfXp6K5Jo

岩に挟んだ釣り竿の先に、トンボが一匹留まっていました。
あの歌詞は確か、畑に差した竿を指していた筈ですが。
風流を解するトンボさんも居るんですね。

 「私、大好きです。Pさんとこうして過ごす時間が」

 「ああ、俺も肇とこうしている時間は気に入ってる」

あの時のように、一歩踏み出す勇気を。

 「大好きなのは、それだけじゃなくて――」

33:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 22:27:30.22 ID:KfXp6K5Jo

――ちゃぷっ。

34:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 22:28:14.56 ID:KfXp6K5Jo

水音と同時に、釣り竿の先がしなりました。
先に留まっていたトンボが驚いたように飛び立って、初秋の空へ消えていきます。

 「最後の当たりかな」

 「…………そうですね。絶対、釣り上げてみせます」

 「いつになくやる気だな、肇」

 「ええ」

風流を解さない魚さんに、負けるわけにはいきません。
女の意地を掛けた真剣勝負です。

 「逃した魚が、大きかったものですから」

それはもう、これ以上無いくらいに。

35:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/28(水) 23:28:44.24 ID:KfXp6K5Jo

 「焦らないようにな、肇」

 「はい」

大事なのは、焦らない事。

私自身に言い聞かせるように、心の中で何度も唱えるしかありませんでした。

36:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 00:19:25.23 ID:787NWdhNo

― = ― ≡ ― = ―

お風呂から上がると、廊下の先に二人の姿が見えました。
おじいちゃんとPさんが並んで濡れ縁に寝転んでいます。
間には、酒瓶とぐい飲みが置いてありました。

 「……ええと」

どうしたものかと思い悩んでいると、父さんが居間から顔を出しました。
二人を見ると、しょうがないなとばかりに苦笑して。
肩を支えておじいちゃんを寝室へと連れて行きました。

 「Pさん」

広い肩を軽く揺すります。
辺りにはお酒の匂いが漂っていました。

 「お体に障りますよ」

 「もう触ってるじゃないか、肇」

Pさんが身体を起こして頭を掻きます。

 「俺の冗談も、少しは上達したか」

 「それも楓さんに習っているんですか?」

 「習うというか、あの人がよく絡んで来てな……冗談も、酒も」

Pさんもまた、しょうがないなとばかりに息をついて。
私には出来ない大人のコミュニケーションに、少しだけ胸の奥がちりりと熱くなりました。

38:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 12:37:19.47 ID:787NWdhNo

Pさんの隣にあったぐい呑みを拾い上げます。

 「お酒って、美味しいんでしょうか」

 「さぁ、俺にもまだよく分からない。ただ」

 「ただ?」

 「一人酒を悪く言うつもりも無いが、酒の味は隣に居る誰かに左右されると思う」

 「隣に……」

 「肇のお爺さんは、旨い酒の飲み方を知っているようだった」

ぐい呑みの底にはまだ少しだけお酒が残っていて。
顔へ近付けると、吟醸酒の香りが鼻をくすぐりました。
少しきつい、けれど大人の匂い。

 「飲むなよ、肇」

 「ええ。もう二年、我慢しておきます」

ここで残ったお酒をぐいと飲んでしまったら、Pさんはどんな反応をするのでしょうか。
大人に成りきれない私の心が、そんな無邪気な考えを覗かせました。

 「この二年を思うと、すぐとは言えませんね」

 「そうだな。まぁ、その時はとびっきりの酒を奢ってやるさ」

 「幸い下戸ではないようですので、楽しみにしておきますね」

 「期待を裏切らないようにしないとな」

 「そこは心配していませんよ?」

39:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 13:29:58.13 ID:787NWdhNo

 「そうか?」

 「はい。ふふっ」

その時も、Pさんが私の隣に居てくれるというだけで。

 「きっと、格別な味に違いありませんから」

陶製の風鈴が、秋の夜風にちりりと音を奏でました。

40:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 14:01:18.87 ID:787NWdhNo

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 「おはようございます」

 「おはよ、肇。ちょうどいい所に来たね」

夜風に乗る虫の音が賑やかになってきた頃。
事務所へ顔を出すと、アーニャさんと凛さんが幾つかの箱を並べているところでした。

 「もう届いたんですね。凛さんとアーニャさんのもちゃんとありますよ」

 「ああ、じゃあこれがこの前里帰りの時に作ったって言う?」

 「はい。今度お二人も紅葉狩りに誘いますね」

 「……ダー。ありがとう、です」

 「……ま、考えとくよ」

ボール箱を開けて緩衝材を退けると、紙に包まれた陶器が見えました。
ペンで書かれた文字を確認して包みを解きます。

 「これは凛さんの花瓶ですね、どうぞ」

 「ありがとう……あれ、青みがかってる?」

 「はい。青が好きだと聞いていましたので。変わった釉薬を使ってみたそうです」

 「へぇ。何か、使うのが勿体無いくらいだね」

 「花を挿してあげないと拗ねちゃいますよ?」

 「それは困るかな」

おじいちゃんの作品はともかく、私が作った物にはそこまでの金額は付きませんが。
仕上げは本職の方がやってくれたお陰で、普段使いには全く差し支え無いと保障しましょう。

41:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 14:28:02.32 ID:787NWdhNo

 「こっちはアーニャさんですね」

 「開けてみて、いいですか?」

 「どうぞ」

わくわくした様子で包みを解かれると、こちらまで何だか嬉しくなってしまいます。
小さな箱から出て来たのは、女性用に軽く作った湯呑でした。

 「イリューシン……きれい、です」

 「そちらの釉薬は薄めの物を使って、雪解け水の意匠を凝らしてあります」

 「お茶、冷めないでしょうか?」

 「ふふ、心配ありませんよ。早速淹れてみましょうか」

 「ならお湯湧かしてくるよ」

まだ残っていたお土産のきびだんごをお茶菓子に、話に花を咲かせます。
アーニャさんに桃太郎のお話をしていると、会議室からPさんが出て来ました。

 「おはよう。来てたのか、肇」

 「おはようございます。Pさんの茶碗も届いていますよ」

 「ああ、この前のか。さてどんな出来になっているかな」

よく見ると、ほんの少しだけわくわくしているような表情で。
Pさんが包みを剥がすと、少々大きめの、夜桜をあしらった茶碗が姿を見せました。
流石はおじいちゃんのお弟子さん達です。

 「へー、渋いね。自分で作ったの?」

 「ええ。そこに居る肇先生に教わって」

 「肇、センセイですか?」

 「ふふ、今度アーニャさんもやってみますか?」

42:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 14:47:08.53 ID:787NWdhNo

 「……ん? こっちは作った覚えが無いが……間違いか?」

そんな話をしていると、Pさんが首を傾げて。
間違えて他の物も一緒に送ってしまったのでしょうか。
包み紙の中から現れたのは、Pさんのものより一回り小さい、桜のあしらわれた――

 「……っ!?」

 「へぇ、二つも作ったんだ」

 「いえ、俺が作ったのは一つだけなんですが」

もう一つの、とても見覚えのある茶碗には。
やたらと気合いの入った、満開の桜模様が描かれていました。
慌てて視線だけを改めて巡らせてみれば、私宛の箱はありません。
まさか、まさか。

 「……すみませんPさん、どうやら他の物が紛れ込んで、」

 「ああ、手紙も入ってるな。肇の親御さんからだ」

何やら、とてもとても嫌な予感がしてなりません。
私の作品は別に寮へ送ってくれるよう。
何度も何度も、何度も念を押したはずです。
脳裏に、母の不自然なくらいにこやかな笑顔が浮かびました。

 「『プロデューサーさんへ。この茶碗は肇の物ですので、渡してあげてくださいね』……ああ、肇のか」

何故。何故一緒に送ったのですか。
金魚のように口をぱくぱくとさせながら、Pさんから茶碗を受け取りました。

43:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 15:10:05.39 ID:787NWdhNo

 「――ああ、そういう事。なるほどね。ふーん、なるほど」

44:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 15:13:42.41 ID:787NWdhNo

凛さんの呟きが、まるで刑の宣告のように聞こえました。
おそるおそる、後ろを振り向けば。
今まで目にした中で一番の、満面の笑みを凛さんが浮かべていました。

 「そっかそっか、夫婦茶碗か。うん、いいんじゃない?」

 「メオト……?」

 「ああ、アーニャは知らなかったかな」

今にも踊り出しそうな表情でした。

 「メオトっていうのはね、『とっても仲が良い』っていう意味なんだ」

 「アー、そうなんですか!」

凛さんに意味を教わって、アーニャさんが嬉しそうに笑いました。

 「二人とも、とってもメオト、ですね!」

熱でも出てるんじゃないかと思うほど、頬は熱くて。
もう、顔を上げられませんでした。

46:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 15:32:05.48 ID:787NWdhNo

 「さ、行こうかアーニャ」

 「? どこに、ですか?」

 「上のカフェ。何でも好きな物奢ってあげるよ。あ、おはようございます。ちひろさんも……」

凛さんが、アーニャさんの背を押して事務所の扉を閉めます。

――『話』、訊かせてね。

閉まる直前、振り返った凛さんの口元がそう動きました。
扉が閉まった後、何やら札を提げるような音も聞こえてきて。
そして私はようやく、逃げ場を塞がれたのだと認めるしかありませんでした。

 「…………なぁ、肇」

 「あのっ、Pさん。これは……ですね、その…………」

47:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 15:45:25.27 ID:787NWdhNo

大事なのは、焦らない事。

そんな考えは何処かへ吹き飛んで。
頭の中はぐるぐると回っていて。

 「ですから……私は…………」

そして私は、すっかり頬に紅葉を散らしたまま。

トンボのように秋の空へ消えてしまいたいと、そう思うばかりでした。

48:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2015/01/29(木) 15:46:11.23 ID:787NWdhNo

おしまい。

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