2:2013/09/15(日) 00:32:41.52 :t5UYVlVE0
「釣れませんね……」
私はぼんやりと、ただぼんやりと竿を垂らしていました。
川のせせらぎと、鳥や虫達の鳴き声ばかりが山の中に響いています。
渓流の釣り場に腰を下ろして、一時間ほど経っているでしょうか。
時間だけが、すっと過ぎてゆきます。
こうして時間だけが過ぎていくような瞬間が、私にとっての癒やしでした。
釣り糸の先、水の流れの中できらきらと輝く針には、しっかりと餌がついています。
けれども場所が悪いのか、食いつきが悪いのか。
釣果は未だにゼロ。
でも、これでいいのです。
こうやって釣りをしているということが、今の私にとって大事なことのように感じたからです。
そんなわけで、私はもうしばらくここに座っていることにしました。
3:2013/09/15(日) 00:34:21.45 :t5UYVlVE0
ぴくりとも動かない釣り竿を軽く握っていると、ぼんやりと今までのことが思い浮かびます。
何も変わることのない日常を過ごしてきた私。
ある日突然、目の前に彼が現れて私に魔法をかけてしまいました。
臙脂色の作務衣は、美しいドレスに。
岡山の長閑な町並みは、銀色のビルの並び立つ都会に。
なんとなく過ぎていた毎日は、一日一日が忘れられないようなアイドル生活に。
ただの陶芸と釣りの好きな女の子は、アイドル藤原肇へと生まれ変わりました。
4:2013/09/15(日) 00:36:32.41 :t5UYVlVE0
ですが……ある時、ふと感じてしまうことがあります。
もしも私がアイドルではなかったら。
もしも私が普通の女の子のままでいたら、どうなっていたのか。
やはり、イメージは少しも浮かびません。
地元の高校で、地元からの友人や高校からの新しい友人達と遊んで。
クラブ活動や委員会活動などをして。
けれども、私のイメージはここまで。
ここまでなら、きっと誰にだって当てはまる高校生活でしょう。
その先、私にしか当てはまらない世界は、こうしていくら悩んだところで浮かびはしません。
私の目で、耳で、肌で、心で感じ取ったことがなければ。
それは夢物語。
ただのまぼろしに過ぎないのですから。
5:2013/09/15(日) 00:38:14.41 :t5UYVlVE0
イメージすることのできないもう一つの可能性は、やはり私の心の隅からどいてはくれません。
これでよかったのか、という不思議な気持ちは、頭のなかでぐるぐると渦を巻いています。
アイドルになって、よかったのか。
私はまだ、答えを出せていません。
トレーナーさんにも、どこか上の空だと指摘を受けて。
皆にもどうしたのと聞かれて、心配されて。
彼やちひろさんは無理をするんじゃないと言い、あちらこちらに電話を掛けだして。
そうして私は、気づけば突然の休暇を頂いていました。
ものの数十分で頂いてしまった休暇。
どう過ごそうかとイメージをしてみても、やはり浮かぶことはありませんでした。
……こればかりは本当に偶然なのですが、頂いた休暇は丁度彼の休暇と重なっていて。
私は無理を言って、大自然の中で釣りがしたいと頼みました。
こうして自分の好きなことに没頭することで、何か感じること、見えてくるものがあるのではないか。
そんな思いを汲み取ってか、彼は二つ返事で私を東京の山奥へと連れて行ってくれました。
6:2013/09/15(日) 00:39:40.34 :t5UYVlVE0
そうしてこの釣り場でのんびりと構えているわけですが……。
なんとなく、釣れない理由もわかってきた気がしました。
今の私には魚を釣り上げるイメージが浮かんでいません。
イメージが出来なければ釣れない、という訳ではないのかもしれませんけれど。
釣れるかどうかを信じていないのでは、仕方がありません。
魚達も、こんな私に釣られるものかと考えているのでしょうか。
そう考えていると、一層釣れる予感は失せてしまいました。
こうして迷っているようでは、何も釣ることは出来ない。
心に曇りがあれば、良い焼き物は生まれないように。
一度、釣りを中断しようと、竿を引き上げました。
いえ……正確には、竿を引き上げようとしました。
7:2013/09/15(日) 00:43:21.56 :t5UYVlVE0
「あれ……?」
ぼうっとしすぎていたのか、針が岩にでも引っかかっていたようです。
ゆっくりと外すか、針を諦めればよかったものを、私は少しだけ焦ってしまいました。
竿を引き上げられなければ、考えをまとめることも出来ないのではないか。
そんな思いが脳裏をよぎり、私は無理に竿を引き上げてしまいました。
案の定、針は水底の岩に引っかかっていたようでした。
無理に引き上げてしまい、糸は切れなかったものの餌は取れて、針は使い物にならなくなっていました。
この針は長く使い込んだものだったな、と思い出すと仕方ないのかもしれません。
針は弧の中程から折れて、見た目は真っ直ぐになってしまいました。
8:2013/09/15(日) 00:44:57.77 :t5UYVlVE0
「……針、取り替えなきゃ」
と、折れてしまった針を見つめて。
何を思ったのか、私は針をそのまま、川へと投じました。
当然、釣れるはずはありません。
それでもいいのです。
何せ、これは魚釣りではありませんから。
この真っ直ぐになった針で、私はもっと大きなものを、大事なものを釣り上げようとしていました。
9:2013/09/15(日) 00:46:07.75 :t5UYVlVE0
じっと、このままで待ってみます。
折れた針の先は尖っていますが、勿論かえしはありません。
餌だってないのですから、こんな針で釣りをすることは到底無理でしょう。
それでも……きっと、意味があると私には思えたのです。
おかしな事をしているのは承知の上。
ですが……これで、いいのです。
これでようやく、物思いに耽ることができるのですから。
10:2013/09/15(日) 00:46:59.76 :t5UYVlVE0
先程からずっと考えていたこと……あったかもしれない、もうひとつの可能性。
私は、地元の高校に入学する少し前に、彼と出会って。
まさか、彼がアイドルのプロデューサーだなんて思いませんでした。
なにもない私にアイドルが務まるのか。
そんな疑問を、不安を、言葉巧みに拭い取って。
そうして……お父さんやお母さん、ついにはおじいちゃんまで説き伏せてしまうとは。
彼はきっと魔法使いだ、なんて言っては怒られてしまうでしょうか。
11:2013/09/15(日) 00:49:29.15 :t5UYVlVE0
そうして今年の春から、東京で暮らすことになりました。
東京なんて、一度も来たことはありません。
右も左も分からないこの場所で、私を助けてくれたのは……。
そうですね。事務所の皆さんです。
私と一緒に今年からアイドルを始めた子や、私よりずっと年上のお姉さん。
同い年なのに芸能界では先輩であったり、はたまた海の向こうや宇宙から来た方だったり。
アイドルの数に負けないほど、プロデューサーや事務員さんもいます。
といっても、私がよく会うのは彼……私のプロデューサーさんと、事務員のちひろさんくらいですけれど。
一つの事務所ですが、とても沢山の人がいて……。
皆さんに支えられて、今の私がいる。
12:2013/09/15(日) 00:51:38.47 :t5UYVlVE0
今の私。
もし、私がアイドルをやめてしまったら?
今の私はどうなってしまうのだろう。
今と変わらず、事務所のみんなとは……会えそうにはありません。
いつの間にか出来上がった、今の私の日常。
それが壊れてしまうことが……何よりも今、恐れている事なのかもしれません。
「……そう、ですね」
私が、求めていたものは。
私の、答えは。
この、不安からの――
13:2013/09/15(日) 00:54:28.20 :t5UYVlVE0
「ふふっ。肇さん、釣れていますか――」
あら。
いつの間にか、私の後ろに一人の少女が立っていました。
その顔は、まるで誰かにそっくりのような……それでいて、誰とはわかりませんでした。
ただ不思議と、私は彼女が誰なのかを知っているような気がしました。
「……あなたは?どうして、私の名を」
その時でした。
ぴくり、と釣り竿が動きます。
「……え?」
「ほら、引いていますよ」
慌てて竿をあげようとしましたが、上手く行かず逃してしまいます。
「あら、逃してしまいましたか」
「……今のは?」
気にするほどの事ではありませんよ、と彼女は教えてくれました。
「そう、ですね」
第一、この真っ直ぐな針では、釣れるはずがありませんから。
「いえ……信じてみてください。釣れることを」
「え?」
ぽかんと口を開けていると、彼女はまた、笑います。
「……では、一度場所を変えましょうか。ついて来てください」
14:2013/09/15(日) 00:55:38.13 :t5UYVlVE0
彼女の後をついて、山の奥へと進んでゆきます。
「ここなど、いかがでしょうか」
そうして連れて来られたのは……。
先程とそう変わらないはずの、渓流。
ただ、一つだけ大きく違うところがありました。
「きっと、見覚えがあるでしょう?」
ええ、そうです。
私はこの場所を覚えています。
だって、ここは……。
おじいちゃんに、何度も連れて行ってもらった場所。
そして、忘れもしない――
「ほら、釣ってみてください」
「でも……かえしも、餌も」
そんなものはいりませんから、早く、と急かされて。
私は糸を垂らします。
15:2013/09/15(日) 00:57:55.80 :t5UYVlVE0
「気を抜いてはいけませんよ。全身全霊を込めて、集中するのです」
そうすれば、魚どころか竜さえ釣れますよ、と彼女は付け加えました。
「竜でも、ですか……」
「ええ。竿の先、糸の先に……全身の気を、込めてください」
私は祈るように竿を握りしめ、気を整えます。
「私は……あなたの『答えを出したい』という気持ちに応じて、あなたの元に来ました」
また、竿がぴくり、と動きます。
「一点の濁りもない、純粋な心で竿を引いてください。心を、純粋にするのです」
ぐいぐいと、竿は水底へ引かれてゆきます。
「邪な気持ちも、不安や恐れも、何もかもを捨てて……」
力を込め、竿を奪われないよう必死にこらえます。
「この大自然に、その身を委ねてください」
ああ、水底が見える。
糸の先に喰らいつく、竜のその姿さえ、見える。
大自然の力を、糸の先に生まれた宇宙を。
目で、耳で、肌で、心で。
感じる。
感じる。
手に取るように、最初から知っていたかのように。
――この世界の全てを、いま、私は感じている。
16:2013/09/15(日) 00:59:04.77 :t5UYVlVE0
「――さあ、竜を釣ってみてください」
17:2013/09/15(日) 01:05:29.04 :t5UYVlVE0
「……あら?」
ふと気づけば、そこはあの、岡山の山奥……ではなく。
先程まで腰を下ろしていた、東京の山奥の、渓流でした。
まさか……夢を、見ていたのでしょうか?
「――きゃっ」
突然はね出した足元の魚を見て、思わず声を上げてしまいました。
……これは、もしかして。
その魚の口から出ているのは、まぎれもなく、私の竿から伸びる釣り糸でした。
「……ふふっ」
竜と言うには、あまりにも小さな魚。
もしもこれが鯉であったら、本当に竜だったのだと信じたかもしれません。
けれども、今までのことが夢でなかったと……今なら、わかります。
まだ元気よくはねている魚を、バケツへと移して針を抜きます。
かえしのない針は、もちろん、するりと外れました。
18:2013/09/15(日) 01:12:01.51 :t5UYVlVE0
「――調子はどうだ、肇」
今度は少女ではなく、彼が後ろに立っていました。
「ぼちぼち、です」
そうか、と彼は片手に持っていたバケツを置き、私の隣に座ります。
「……いい顔になったな、肇」
「そうですか?」
ああ、と彼は私の目を覗き込みます。
……少々、恥ずかしいのですが。
「晴れ晴れとしたような……いい表情だ」
急に頭を撫でられて、私は少しだけ驚いてしまいました。
彼は、何も気にせずに、ずっと私の頭を撫でています。
恥ずかしいけれど……なんだか、落ち着きます。
19:2013/09/15(日) 01:15:21.99 :t5UYVlVE0
「悩みがあったみたいだったが……もう、大丈夫なのか?」
ええ、ご覧のとおり。
先程までずっと考えていたことは、どこかへと消え去ってしまいました。
「はい。どんなことがあっても……私は、私です」
また、どこかで不安を感じてしまうかもしれません。
けれどもそれは、私の生み出したまぼろし。
こうして嫌な気持ちや不安な気持ちを捨てて、心を純粋にして。
大自然に身を委ねて、ゆっくりと自由を感じれば。
もう怖いものなど、ないのですから。
「信じるべきものは……見つかりました」
「そうか」
大切なのは、信じること。
そう言うと彼は、
「信じることは……こわいこと、だな」
と笑いました。
20:2013/09/15(日) 01:17:00.32 :t5UYVlVE0
「肇が元気になってくれて、よかった」
今日の休暇は、それだけで価値があった、と彼は言ってくれました。
「あの、――さん」
いつかの休暇に、また、あの場所に行きましょうね。
「そうだな」
忘れもしない、あの渓流。
小さい頃からおじいちゃんに連れられて、ずっと釣りをしていたあの場所に。
大切な、大切なあなたに出会えたあの場所に。
「いつになるかは分からないが……努力する」
アイドル藤原肇の生まれた、あの場所に。
あなたと、二人で。
21:2013/09/15(日) 01:19:23.66 :t5UYVlVE0
「肇、その針は――」
食い入るように私の釣り針を見つめていましたが、
「そうか、そうか」
と彼は何かに気付いたかのように頷いて、笑ってくれました。
「自由な気持ち……思い出したみたいだな」
ええ、その通りです。
不安や焦り。
苦痛や悩み。
それらすべての、生きることからの自由。
見えない未来からの、自由。
悪いイメージは、もう浮かびません。
見えない未来は、そのままでいいのですから。
もう、恐れるものはどこにもありません。
私は……自由な気持ちを、思い出しましたから。
22:2013/09/15(日) 01:20:56.50 :t5UYVlVE0
「それで、肇――」
針を付け替えて、二人並んで糸を垂らして。
ふと、思い立ったように、彼が聞きます。
「――釣れているか?」
「――ふふっ。ええ、釣れました」
ぱしゃんと水面をはねる魚。
さえずりを続ける小鳥達。
絶えず流れ続ける清流。
この世界のすべてを感じながら、私は彼に笑顔を向けました。
「釣れましたとも、私自身が……」
23:2013/09/15(日) 01:36:13.17 :t5UYVlVE0
竜を釣り上げる話は諸星大二郎の「太公望伝」が元ネタになっています
ありがとうございました
元スレ
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