2: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:09:12.77 ID:0ZQN8Z+c0
時刻は真夜中。
ふと、目が覚めてしまった。
早く寝なくちゃいけないと分かってはいるのに、どうしても寝られなかった。
身を起こし背中を壁に預けると、膝をかかえて蹲る。もう慣れたはずの薄暗い部屋が、なぜだろう、今はとても寂しかった。
このままじゃ眠れない。どうしようかな……。
少しだけ考えた末、思いついたのは1つ。私は、すぐにスマホを手に取った。
「……」
こんな時間、あの人だって起きてるかわからない。
だけど今日だけは……今だけはあの人と話したい。
どうしてもあの人の声が、聞きたかった。
3: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:10:59.60 ID:0ZQN8Z+c0
「出てくれるかしら」
出てくれることを祈りながら、あの人のプライベート用の番号にかける。
……1コール、2コール、3コール。
『はい、Pです。一体どうしたんですか、こんな時間に』
出てくれた。少しだけ心配そうな声で。
たったそれだけの事なのに、私の心はぱっと明るくなる。
「こんばんは、プロデューサー。なんだか眠れなくて、ついこっちに電話を……あの、ご迷惑でしたか?」
『ははは、そんなことないですよ、むしろ嬉しいくらいです』
「そう、ですか?」
『ええ、似たもの同士だなって。僕も明日のことを思うと、眠れませんでしたから』
「あら」
そう言い、私達は笑いあう。
本当に、私たちは似たもの同士だったようだ。明日のことで眠れないなんて。
ここまで一心同体で進んできた、その証のようで少しだけ嬉しかった。
4: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:14:39.33 ID:0ZQN8Z+c0
『明日かぁ……やっぱり緊張します?』
「ええ。いくらなんでも、流石に」
『初の単独全国ドームツアー、その最終日ですからね』
そう、明日はツアーの最終日。
それも、私のソロツアー。
「単独でのドームツアー……最初のころからしたら、夢みたいな話ですね」
『そうかもしれません。でも、これも楓さんの努力の賜物ですから』
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、やっぱり緊張しちゃいます」
事務所の皆との全国ツアーは何度か経験している。
でも、単独ツアー、しかもドームでなんて、初めてのこと。
もともと喋るのが得意なわけではないから、ある程度台本があるとはいえMCは毎回ドキドキだった。
しかも明日はその最終日なのだから、どうしたって緊張する。
5: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:16:57.70 ID:0ZQN8Z+c0
でも。
「確かに最終日だから緊張します……でも、それだけじゃありませんよ?」
緊張するような、怖いような。
そんな胸の内を誤魔化すように言うと、プロデューサーが頷くのが雰囲気でわかった。
『勿論。明日楓さんの誕生日で、それに……』
ええ、と私は言葉を引き継ぐ。
「私に――アイドル『高垣楓』に掛けられた魔法が、解ける日ですから」
そう。
明日は私の30歳の誕生日で。
そして明日、私はついにアイドルを『卒業』する。
6: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:20:05.14 ID:0ZQN8Z+c0
『僕がスカウトしてから、5年間。なんだか、あっという間でしたね』
「ええ。25歳でモデルからアイドルに転向して、逆ならともかって言われて……遠いところまできた気もするけれど、あっという間でした」
『この5年間、楽しかったですか?』
「そうですね……大変なこともあったですけど、楽しかったです。モデルのままだったら、きっと味わえなかったことですから」
モデルじゃあり得ない、煌びやかな衣装を着て。
素敵なステッ……ステージで歌って。
ファンの人々の歓声を浴びて。
本当に本当に、考えられないくらい楽しい日々だった。
どれもこれも、全部プロデューサーと出会えたからこそ。
彼がいつも隣にいてくれたからこそ、だ。
『そう言ってもらえるのは、プロデューサー冥利につきます』
「ふふっ、ぜーんぶ、プロデューサーのおかげですよ」
7: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:22:49.53 ID:0ZQN8Z+c0
『……いやなんか、照れますね』
頬をぽりぽりとかいている姿が、簡単に目に浮かぶ。照れてる時は、彼はいつもそうしているから。
「照れなくったっていいんですよ? 本当のことなんですから」
『そうですかね』
「ええ。感謝しています」
『そうですか……うん、僕も楓さんみたいな最高のアイドルをプロデュースできて、楽しかったですよ』
「あら、御上手ですね」
『お世辞なんかじゃないですよ? 心からそう思います』
おお。
なんというか、これは。
「……プロデューサーの気持ちが分かりました」
『?』
「なんか、照れますね」
そういって、笑いあい。
そうしてようやく、気が楽になった気がした。
8: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:25:20.01 ID:0ZQN8Z+c0
そうしてしばらく、私達は5年間の思い出話に花を咲かせていた。
5年間は長いようで短かったけれど、その間の2人の想い出は沢山ある。
初ライブのこと。
すれ違って、喧嘩してしまったこと。
CD・ダウンロード共に1位になったときのこと。
惜しくもシンデレラガールを逃がし、涙したこと。
念願かなってシンデレラガールになって、やっぱり涙したこと。
本当に本当に、思い出はいっぱいある。
楽しい事も、辛かったことも、2人だけの秘密も、いっぱいだ。
そんな思い出話が、ふと途切れた時のことだった。
『1つ、聞いてもいいですか』
プロデューサーが、そう言った。
9: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:28:50.08 ID:0ZQN8Z+c0
それは、思い出話をしていたさっきまでとは違う、真剣な声色。
だから私も、真剣に返す。
「なんですか?」
『明日『卒業』することに、後悔はないですか?』
そういえば、今までそういった類のことを聞かれたことがなかったなと、ふと思う。
そんなことを聞かれたことに少し驚いたけれど、でも、私の答えは決まっていた。
「そうですね、正直に言えば名残惜しさはあります。私は歌う事が、ステージが好きだって、知りましたから」
『……』
「でも、後悔はありません。さっきも言いましたけど、Pさんのお陰でここまでやってこられて、満足しています」
『そっか……うん、それが聞けてよかったです』
10: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:30:59.68 ID:0ZQN8Z+c0
プロデューサーがいてくれたから、私はアイドルとして全力をつくせたと思う。
世間では人気のアイドルと騒がれたし、少しだけ――本当に少しだけ、その自負もある。
だからこそ、30歳という節目の誕生日にアイドルを『卒業』することに、後悔はなかった。
そして今までに後悔はないからこそ、後悔を残したくないと、そう思う。
「後悔はありません。だからこそ、明日は最高のステージにしたいと思ってます」
『そうですね。有終の美を飾るためにも、明日は最高のステージにしましょう』
「私の5年間のアイドル生活の全てを出し切らないと、ですね」
こいかぜ。雪の華。Nation Blue。Nocturne。
ほかにも、今まで歌ってきたいろんな曲。
その全てを、最高のコンディションで歌いたい。
ファンの皆に、届けたい。
『ええ。アイドル業界史に燦然と輝くような、そんなステージにしましょう!』
「……はい!」
11: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:32:35.36 ID:0ZQN8Z+c0
これで、電話は終わり。それじゃあ明日は頑張りましょう、おやすみなさい。ピッ。
……そんな空気が流れているのに、何故だか私たちはどちらも電話を切れずにいた。
けれど、何を喋るわけではない。ただ、電話を切ってはいけないような、そんな気がした。
たっぷり、1分は沈黙が続いただろう頃。
彼が、口を開いた。
『楓さん。最後に1つだけいいですか』
「なんですか、プロ……いえ、Pさん」
『明日、楓さんが卒業して、一人の女性に戻った時。渡したいものがあります』
12: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:35:17.61 ID:0ZQN8Z+c0
その言葉に、どきりと胸が跳ねる。
「渡したいもの……ですか?」
『はい。その時に渡そうと、決めてたものです』
「誕生日プレゼントですか?」
『それも兼ねてはいますけど……それだけじゃありません』
「大事なものですか?」
『ええ、とても』
「そう、ですか」
ああ、と、私は心の中で一人嘆息する。
これも、ここまで一心同体で進んできたお陰……だろうか。
Pさんが何を言いたいのか、わかってしまった。
そしてそれを、はっきりと言葉にしない理由も。
13: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:38:05.55 ID:0ZQN8Z+c0
私はアイドルで、Pさんはその担当プロデューサーで。
今までの関係は、はっきり形にできない……形にしてはいけない、アイマイなものだった。
でも、明日のライブが終われば、私にかかった魔法は解けて、ただの女性に戻る。
私達の事務所の象徴、御伽噺のシンデレラのように。
そしてアイドルが、私がシンデレラだとしたら。
Pさんは、私に魔法をかけてくれた魔法使いでもあり。
そして、私にとっての……
「……待ってます」
『はい?』
「私、待ってますね。王子様が『硝子の靴』を……最高の誕生日プレゼントを持って、迎えに来てくれるのを」
『――はい』
14: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:40:44.99 ID:0ZQN8Z+c0
「それじゃあ流石に明日に差し支えますし、そろそろ寝ますね」
『はい。僕も寝ることにします』
「それじゃ――」
『あ! ちょ、ちょっと待ってください』
「はい?」
『もう日付回ってますから。お誕生日おめでとうございます、楓さん』
「ふふっ、ありがとうございます、Pさん。あーあ、ついに私も三十路ですね」
『明日から朝は味噌汁、ですか?』
「ふふっ。ええ、ミソだけに。それじゃあ、今度こそ」
『はい。おやすみなさい』
15: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:44:52.75 ID:0ZQN8Z+c0
スマホから耳を放し、切断の文字をタップする。
ぷつりと電話は切れて、薄暗い私の部屋は再び沈黙に包まれる。
でも、もう寂しさは感じなかった。Pさんと話すことができたから。
まだ不安もあるし、緊張もする。
でも明日のステージは、最高のステージにできる。
そんな予感が、胸の中にあった。
「おやすみなさい」
誰にとはなくそう言って、私は布団へ潜り込む。
明日のステージのことを。
そしてその後の事を考えながら、私は静かに目を瞑った。
16: ◆OVwHF4NJCE 2015/06/14(日) 21:49:07.43 ID:0ZQN8Z+c0
おしり、じゃない、おわりです。
かなり短い、突貫工事で作ったものでしたが、少しでも楽しんでもらえたなら幸いです。
そして楓さん誕生日おめでとう!!
それでは、HTML化依頼を出してきます。