1: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:50:47.17 ID:apyY2YgH0
ぼくは、恋をしている。
それに気付いたのは、8月1日のことだった。
ぼくは、社長にプロデューサーとして雇われた。
この就職難の世の中で、ぼくを救ってくれたのだ。
最初は、女性への対応がわからなかった。
それを社長に伝えると、ぼくもだよ、と笑ってくれた。
社長の人の良さのおかげで、ぼくは上手くやっていけているのだ。
ぼくは、さくらの咲きはじめる4月に入社した。
今年で設立して2年目になります、と彼女は教えてくれた。
彼女は千川ちひろと名乗った。最初は、アイドルだろうと思っていた。
ちひろさんはぼくより1年先輩で、設立当時から勤めている。
仕事慣れしていることもあり、ぼくに親切に教えてくれていた。
最初はただ、美人だ、としか思わなかった。
けれど、いつしかぼくは彼女に惹かれていた。
それは8月1日…つまり、今日、気付いたのだ。
千川ちひろに、ぼくは、恋をしている。
2: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:51:45.34 ID:apyY2YgH0
ちらり、と時計を確認する。
2013年8月1日。今日は木曜日だ。
得意な書類事務を片付けていたときだった。
レッスンを終えたアイドルが、戻ってきていた。
「プロデューサー、ただいま」
『うん、おかえり。お疲れさま』
最初のような、ぎこちない笑みはなかった。
本心から、疲れをいたわるような声が出ていた。
『じゃあ、わたしはそろそろ帰るから』
「わかった。忘れ物がないように」
『ありがとう、プロデューサー』
嬉しそうに微笑みかけられ、ぼくが癒されていた。
ぱたんという音と共に、静寂が訪れた。
そして、転機はやってきた。
『プロデューサーさん』
3: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:52:13.71 ID:apyY2YgH0
「はい?」
ぼくが後ろを振り返ると、ちひろさんが嬉しそうに立っていた。
その端正な顔立ちには、どんな表情もよく似合う。
今の、小悪魔のような微笑みさえも。
『お仕事、慣れてきたみたいで、よかったです』
『お疲れでしょうし、コーヒーです』
『あ、プロデューサーさんにはお砂糖が1つ…と』
ぼくのコーヒーの好みを覚えてくれていた。
数度しかいれてもらったことがない、というのに。
このチャンスを逃す手はない。笑顔を携え、ぼくは言った。
「仕事も終わりましたから、休憩にしましょうか」
『はいっ』
絵に描いたような事務用品のチェアから腰を上げ、ソファに下ろした。
ああ、やはりこちらの方がやわらかく、程よい弾力がある。
ちひろさんは、ぼくの対面に腰を下ろしていた。
ガラステーブルをはさんでも、その距離は1メートルもない。
意識してしまったようで、ぼくの頬は熱をもった。
ぼくはまっすぐ彼女をみられなかった。
ああ、意識するまでは、気にしていなかったというのに。
4: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:52:54.40 ID:apyY2YgH0
コーヒーに手を付け、カップで顔を半分隠した。
呼吸を整え、ちひろさんをみた。
淡い栗色をした、ゆるやかに弧を描く髪。
つんとすました鼻に、すらりとした輪郭があった。
目は驚くほど大きく、睫毛も非常に長い。
性格も申し分なく、まさに理想の女性と言える。
『あの…コーヒー、お口に合いませんでしたか』
とんでもない。香り高く、文句のつけようがない。
ぼくは、慌ててその誤解を訂正した。
『ああ、よかったです』
嬉しそうに、彼女はにっこりと笑ってくれた。
やはり、笑っている顔はとても美しい。
そうだ。チャンスは今だろう。
彼女を…ええと、そうだ。誘うのだ。
食事でも、酒の席でも、なんでもいい。
そう思っていたとき、彼女は口を開いた。
『では、私はもう仕事もないので、帰ります』
『プロデューサーさん、社長、お疲れさまでした』
奥から社長のお疲れさま、という労いの声が聞こえる。
そんな。このまま誘えないのか?それはダメだ。
考えているうちに出て行ってしまった。
ぼくもすぐに社長に挨拶し、ちひろさんを追いかけた。
5: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:53:23.00 ID:apyY2YgH0
「ちひろさん!」
『プロデューサーさん?』
『どうか、したんですか』
彼女の純粋な問いに、一瞬頭が真っ白になった。
恋愛というものは、どうにも難しいものだ。
…けれど、ここで勇気を振り絞らねば。
「ええと、その…よかったら、呑みに行きませんか」
「今まで、2人で行ったこともありませんでしたから」
「ああ、よければ、でいいんです…よければ」
ぼくの最大限の勇気がそれだった。
もっと上手く誘える人もいるだろうに。
『いいですよ』
ぼくは間髪入れぬその返答に驚いた。
誘っているのはぼくだが、驚いてしまった。
すぐに間を開けぬよう配慮し、言葉を続けていく。
「店…どこにしましょうか」
誘っておいて、考えていなかった。
ぼくはいい店、というものをほとんど知らない。
その延長線として、私服のセンスもあまりよくはなかった。
『あ…なら、今回は私のオススメのお店で』
申し訳ないが、ぼくは、彼女に甘えてしまった。
今度からは、店を調べておかなければ。
ぼくはちひろさんと肩を並べ、歩き出した。
6: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:54:17.19 ID:apyY2YgH0
連れて行ってもらった先は、少し値の張るバーだった。
ちひろさんは、こういうお店も知っているのか。
こういうところに、1人で来るのだろうか。
それとも、男性と来ているのだろうか。
ああ、邪推してはいけない。彼女のプライバシーだ。
ぼくは、銘柄もわからないので、口当たりのいいものを頼んだ。
ちひろさんは、慣れた様子でお酒を頼んでいた。
どう話を切り出すべきだろうか。
『今日は、誘ってくれて嬉しかったです』
彼女に先を越されてしまった。申し訳ない。
ぼくは、ちひろさんを飽きさせぬよう努力していた。
「こちらこそ、応じてくれて嬉しかったです」
恋愛指南書なるものを、以前友人から押し付けられていた。
今になって、それを熟読しておくべきだった、と後悔した。
『プロデューサーさんは、休日はどうしているんですか?』
彼女の気の利いた一言で、ぼくは饒舌に話すことができた。
それをきっかけに、ちひろさんのプライベートも知ることができた。
交際している男性はいないこと、ひとり暮らしであること。
休日はショッピングをしていたり、読書をしたり。
なんとも知的で女性的な趣味だった。
ひと通り話し終え、その場は割り勘で収まった。
男ならば、好意を寄せる女性には、見栄を張りたいのだが。
そして、さらにちひろさんは、嬉しい一言をつけくわえてくれたのだ。
『また、誘っていただけるのを、待ってます』
7: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:55:08.03 ID:apyY2YgH0
ほどよく頬の紅潮を感じていたぼくは、すぐに家に戻った。
別れ際のあの一言。期待をしてもいいのだろうか。
好意を抱いてくれなくても、きっと、悪印象ではないだろう。
それだけがわかれば、ぼくとしては最高の収穫であったと言うしかない。
酔いを覚ますために、冷水でシャワーを浴び、ベッドに入った。
エアコンを3時間稼働設定にして、ぼくは思案していた。
次はどうするべきだろうか。そうだ。
ええと、言う所の、デートの約束を取り付けなければ。
デートと言えば…なんだろう。遊園地?それは、子供すぎるだろうか。
ならば…映画?そうだ。映画がいい。
けれど、ぼくは、まともな私服を持っていない。
趣味に使うお金もなく、預金ならばある。なら、買おう。
でも、服のセンスがよくないぼくが、どうやって…ぼくの服を。
店員に押され購入してしまうのは目に見えている。
ああ、アイドルたちがいるではないか。
事情を話し、協力してもらえはしないだろうか。
考えを細部まで整理したぼくは、体温が戻るのを感じていた。
そのあたたかさと、吹き抜ける涼しい風にまどろみ、夢をみた。
そこにいた彼女は、ぼくと共に笑っていた。
8: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:55:44.87 ID:apyY2YgH0
翌日、ぼくは担当アイドルに事情を話した。
すると、快く承諾をしてくれて、アドバイスをくれた。
デートに行く服がないのだ、と伝えると、笑われてしまった。
なんだかプロデューサーらしい、と付け加え、フォローしてくれた。
事務所に置かれている男性用のファッション雑誌を手に取った。
最近の流行はこれ。こういうのもいいかもしれない。
言われてみれば、格好いいものばかりだ。
あとは、美容室で髪を整えて、整髪料をつけるといい。
そう教えられ、ぼくは土曜日に、美容室の予約を入れた。
礼を伝え、彼女は頑張って、とぼくを応援してくれた。
なんだか、その横顔は、少し寂しそうな顔だった。
帰りに勧められたセレクトショップに足を運び、衣類をまとめ買いした。
上質な服とは値が張るものなのだ、とぼくは思った。
けれど、彼女のような美しい女性の隣に並ぶためだと意識した。
美容室の帰りに、コンタクトレンズをつくることを自発的に決めていた。
そして、土曜日の朝が来た。
9: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:56:11.32 ID:apyY2YgH0
美容室というのは、どうしてこうきらびやかなのだろう。
もっと、床屋のように落ち着いていてもいいではないか。
背よりずっと高い鏡に映されるぼくは、少しわくわくしていた。
雑誌の切り抜きを渡すときは恥ずかしかったが、気にしていないようだ。
髪を切られている間、ぼくはずっと目を閉じていた。
終わりましたよ、と目を開くと、そこにぼくはいなかった。
ああ、適切な表現をすると、元のぼくはいなかった。
いまどきの清潔感を残した髪型だった。
ぼくは美容師に、正直に整髪料の使い方がわからない、と伝えた。
すると笑うこともなく、ていねいに使い方を教えてくれた。
ありがたい限りだ。また、ここに来たいと思った。
迷わずこの美容師を指名することだろう。
帰りに、コンタクトレンズを作りに行ったが、思いの外時間がかかった。
隣接している眼科で診断を受けねばならず、そこが混んでいたのだ。
ぼくの名前が呼ばれるまでは、携帯と顔を合わせていた。
ちひろさんにメールを送っていたのだ。
日曜日の17時、映画を見に行きませんか。
端的に日時と目的を伝えた味気ない文章だ。
けれど、ぼくにはそれしか思いつかなかったのだ。
そして、ぼくの名前が呼ばれた。
10: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:56:39.38 ID:apyY2YgH0
1dayのコンタクトレンズだったので、なかなかに値が張った。
さらにぼくは乱視だったので、助長する原因だった。
だが、これでメガネともおさらばだ。
髪を整え、上質な服を着たぼくは、見違えるようだった。
これはぼくのためであり、彼女のためでもあるのだ。
もし、デートを了承してくれれば、隣を歩く。
その際に、彼女に恥をかかせたくない。
そういえば、メールを送ったままだった。
携帯を開くと、ちひろさんからメールが来ていた。
楽しみにしています。待ち合わせは、駅前で。
見たい映画のリストを添えてくれていた。
彼女は本当に機転がきく。
ぼくは彼女に映画の好みを聞いていないし、場所も。
感謝を通り越して尊敬を覚えるほどだった。
さて、家に帰ることにしよう。
家に戻り、シャワーを浴びる前に、ぼくは躊躇った。
この髪型をよく覚えておかなければ。
プロデュース業で培った記憶力で定着させた。
ぼくは、明日の映画を楽しみに、眠りについていた。
ちひろさんは、驚いてくれるだろうか。
11: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:57:19.01 ID:apyY2YgH0
そして、ようやく待ちに待った日曜日がきた。
女性と私的な用事で肩を並べ歩くことなど、ぼくは殆ど経験がない。
ぼくは早朝に起床し、インターネットで情報を集めた。
ささいな仕草、やっていいこと悪いこと。
ぼくは、それらを全て頭に叩き込んだ。
洗面所で整髪料を使い髪を整え、コンタクトレンズをはめた。
美容師にやってもらったようにはならなかったが、形にはなっている。
ぼくとしてはもう少し上手くやりたかったが、これでも及第点と言えるだろう。
新品の衣類に身を通し、商品のタグがないか確認していく。
せっかくのデートなのだ。完璧にエスコートをしたい。
ああ、よく見れば、もう時間ではないか。
そろそろ向かうとしようか。
実際には30分ほど早く着いてしまったが、これでいい。
女性を待たせるようなことがあってはならない。
待ち合わせの駅前に行くと、そこには既にちひろさんがいた。
ぼくは遠くから、その姿を歩きながら眺めた。ああ、私服のセンスもいい。
落ち着いたデザインの衣類でまとめ、けれど女性的な服だった。
事務所に置いてあるファッション雑誌で言えば、モアだろうか。
彼女は、ぼくがかなり近づくまで、ぼくに気付かなかったようだった。
12: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:57:48.69 ID:apyY2YgH0
「ちひろさん、お待たせしてすみません」
『…プロデューサーさん?メガネはしていないんですか』
「ええ、コンタクトにしました」
ここで服を買い直した、とは言わなかった。
映画の後、お酒の席へ誘えたなら、話の種にしよう。
「あ、映画を調べてみたんですが、これが評判がいいらしくて」
ぼくは調べたことを彼女に伝えた。
なら、それにしましょう。楽しみです。
そう言ってくれたので、映画館へ向かった。
ぼくは、さりげなくチケットを2枚購入し、当然のように渡した。
ちひろさんは一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに笑ってくれた。
ここは譲るべきだと判断してくれていたのだろう。
本当に聡明な女性だと思った。
パンフレットや飲食物を整え、ぼくはちひろさんの隣に座った。
腕置き1つを挟んでいるが、その距離はぼくには近すぎた。
腕を乗せると、彼女の腕にあたってしまいそうだった。
思春期の中学生のような思考だが、仕方がない。
そして、映画がはじまった。
13: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:58:15.06 ID:apyY2YgH0
『本当におもしろかったです。あのシーンには、涙が出そうでした』
謝るのは、ぼくの方だろう。
映画の内容など覚えていないのだから。
隣にいる彼女にあまりに気をとられすぎていた。
けれど、最大の盛り上がりシーンは記憶に留めている。
ぼくはそれを、客観的に端的に、前向きに感想を述べた。
『はい。見に行くことができて、よかった。ありがとうございます』
彼女はそう言って、また笑ってくれた。
この笑顔は、何物にも代えがたいと思った。
時刻を確認すると、既に19時を過ぎ、20時近くになっていた。
ええと、ここから、彼女を酒の席に誘うのだ。
以前と同じように、普通に。
『あ、そうだ。よければ、この後どうですか』
ああ、またちひろさんに気を使わせてしまっただろうか。
それを確かめる間もなく、ぼくは活発にその提案を肯定した。
「はい。少しだけ何か食べていきましょうか」
14: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:58:49.64 ID:apyY2YgH0
今度は、ぼくの提案した店に行くことになった。
言うなれば、隠れ家的雰囲気、というのだろうか。
入るのははじめてだったが、その内装には目を奪われた。
ほのかな明かりが見事に室内のシックさと合致しているのだ。
なかなか気の利いたおしゃれなメニューもあった。
ぼくは悩むこと無く頼んだビールで、ちひろさんと乾杯した。
彼女もお酒に慣れているようで、ペースは早い。
普段から、ある程度飲んでいるのか。
「今日は、付き合っていただいて、ありがとうございました」
『いえいえ。こちらこそ。あ、ここは私が持ちますから』
先を越されてしまった。けれど、ここは譲るところだ。
ときには素直さも大事だろう。ぼくは思った。
「ありがとうございます」
すみません、よりもこちらの方が前向きだろう。
言葉を選んで、ぼくは彼女に礼を述べた。
酒のお陰で、ぼくは饒舌になった。
彼女もそうであるようで、ぼくたちは楽しく語らい合った。
15: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:59:23.63 ID:apyY2YgH0
ひと通り今日のデートへの意気込みを伝えていた。
そうだったんですか。と彼女は目をまるくした。
そして、ちひろさんに酒のせいではない頬の紅潮が見て取れた。
少し嬉しそうに、呑みなおした酒の氷を、少しだけ揺らしながら、だった。
ぼくは少しだけ声を落とし、真剣なトーンで尋ねた。
「…また、お誘いしてもいいですか」
『ふふっ。もちろん、ですよ』
『…楽しみに、してますから』
なんと肯定的な返答なのだろう。
ぼくは飛び上がりそうになってしまった。
その喜びは、ひざの上の握りこぶしに収束させた。
ぼくたちは、互いに背を向け、夜の明かりの中に消えていった。
できることなら、家へ送り届けるくらいはしたかった。
無論、邪な考えなど抱いてはいない。
彼女は美人だ。
それが意味するところを辿れば、誰しもがそう思うだろう。
ぼくは家に戻っても、この酔いをさましたくはなかった。
夢をみていたかったのだ。彼女との夢を。
さめなければいい。
この、真夏の夜の夢が。
16: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 14:59:49.79 ID:apyY2YgH0
それから3日経った水曜日のことだ。
あのデートの後から、ぼくはちひろさんと話していない。
互いに忙しく、時間がとれなかったのだ。
今度の仕事の件もある。
ぼくは夕方前に仕事を終え、ソファでコーヒーを飲んでいた。
そのついでに、ぼくは仕事の企画を進めていた。
アイドルの合同ライブのことだ。
難しい内容だった。
いかに盛り上げるか、というのもプロデューサーのテクニックだ。
アイドルの本質を見抜き、それを生かさなければ。
彼女らの未来はぼくが預っている。
ひと通り思案をまとめた上で、社長に確認をもらった。
うん。これなら、きっと上手くいく。
続けて、笑ってくれた。
仕事も終え、後は帰るだけになったときのことだった。
奥から事務作業を終えた彼女が出てきた。
『社長。では、いまから事務用品の買い出しに行ってきます』
このチャンスも、逃す手はない。
ちひろさんに同行することを伝え、了承をもらった。
近くの懇意にしている文房具店までだが、それでも十分に嬉しかった。
さて、何を話そうか。
17: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:00:33.52 ID:apyY2YgH0
以前より、ちひろさんの態度はさらに軟化していた。
交流を深めた結果もあったのだろう。
けれど、どこかその両肩は落ち着いていない。
どうかしたのだろうか。ぼくは、隣を歩く彼女に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
抽象的な問いだが、それで十分だろう。
私的な悩みでなければ、話してくれるだろう。
『え?ああ、はい。大丈夫です』
私的な悩み、もしくは何もないのだろう。
…話を途切れさせまいと、ぼくは続けた。
「また、いい店を見つけたんです。よければ、どうですか」
『嬉しいです。では…仕事もあるので、今度の土曜日…10日に』
「よかった。では、楽しみにしています」
『…こちらこそっ』
ああ、なんと素晴らしいひとときなのだろうか。
この時間が永遠に続けばいいのだが、そうはいかない。
ぼくは、女性が運ぶ量には多いものを抱え、事務所に戻った。
土曜日が楽しみだ。
18: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:00:59.68 ID:apyY2YgH0
そこから土曜日までもちひろさんと話さなかったが、満足していた。
ぼくは、前述の仕事の企画のため、朝の11時には営業に向かった。
担当アイドルの名を伝え、企画の再確認などを行った。
向こうも快く了承してくれ、後は本番だ。
仲のいいディレクターに呑みに誘われたが、成功したときにと伝えた。
なんだか残念そうだったが、楽しみはとっておくべきだ。
それはもちろん、今のぼくのようにだが。
ぼくはさらに数社を回った。
広告の宣伝、掲載許可を貰わなければならない。忙しいが、楽しい。
アイドルの輝く手伝いをできるのだ。これほど楽しいことは他にない。
ぼくは嬉々とした表情でアイドルの素晴らしさをアピールしていった。
全ての営業を終えて、時計をみると16時42分だった。
ここから歩いて帰れば、17時過ぎには着くだろう。
ぼくは事務所に向かって歩き出していた。
夜が楽しみだ。
19: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:01:28.28 ID:apyY2YgH0
『それでは、すみません。失礼します、社長』
ちひろさんはそう挨拶をし、ぼくと共に事務所を出た。
これからのことで頭がいっぱいだ。
何を話せばいいか。
「とりあえず、少し歩きましょうか。お腹はすいていますか」
『ええと、まだ、少しです』
「なら…繁華街近くにでも出ましょうか」
『はいっ』
彼女はぼくの顔をちらちらと見て、すぐに視線を逸らしている。
メガネをかけていないぼくの姿は不自然だろうか。
あとあと、聞いてみることにしよう。
アイドルたちには、お世辞かもしれないが、うけがいいのだ。
プロデューサー、かなり格好良くなった。すごい。
そう褒められていたのだが。
髪もおかしいのだろうか。今日は営業で、少し汗をかいている。
崩れないように、スプレーもしているのだが。
だが、表情には出さなかった。
彼女はある一点で目を留めた。
20: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:02:05.56 ID:apyY2YgH0
小さなネックレスだった。
1万円くらいのネックレスで、ハート型をしていた。
彼女は愛でるようにそれを見て、ぼくに気がついた。
『あ…す、すみません。行きましょうか』
ぼくはそれを確認し、ちょっと待っててください、と告げた。
そのまま店に入り、ショーウィンドウのそれを注文した。
包装なさいますか。尋ねられたが、断っておいた。
店を出て、ぼくはそれを手渡した。
『い、いえ。そんな。ごめんなさい、そういうつもりでは…』
「ぼくが持っていても、仕方がないので。もらってください」
これではどうみても好意を伝えているようなものだが、気にしていない。
ぼくは彼女に好意を抱いているのだ。ならば、当然だ。
彼女も戸惑いながらも、それを受け取った。
『ありがとうございます。大切に…大切にしますから』
彼女はすぐにそれをつけて、ぼくに見せてくれた。
ちひろさんの細く白い、美しい首筋に、それはよく映えていた。
こう喜んでくれると、ぼくもプレゼントしたかいがあったというものだ。
『じゃあ、行きましょうか。プロデューサーさん』
21: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:02:31.81 ID:apyY2YgH0
『今日は私が出します。これだけは、譲りませんから』
彼女はちょっと困ったような表情で、ぼくにそう告げた。
ネックレスのことなら、気にしなくてもいいのに。
そう思ってはいたが、ぼくはそれに甘えた。
『そうですよ。私の方が、先輩なんですから』
小さく細い、可愛らしい仕草で威張っていた。
本当に一挙一動までが可愛らしい。
美しくもあるのだが。
『で、でも…その、ありがとうございます』
『本当に…本当に、大切にしますから』
『出勤日に、つけていこうかな』
『ううん。次の出勤日だけ、着けていきます』
『あとは…その。プロデューサーさんの前でだけ』
頬を紅潮させ、上目遣いでぼくを見るその姿。
ぼくは愛おしくてたまらなかった。
嬉しすぎるではないか。
それでは、次も期待してくれているような一言ではないか。
22: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:02:58.98 ID:apyY2YgH0
次の月曜日、それは大騒ぎになった。
ちひろさんがネックレスをしている。
これ、どこで買ったの。みなも一斉に食いついた。
彼女はちらりと目をやり、自分で買ったと述べてくれていた。
ああ。その方が、ぼくとしても助かる。
彼女は質問攻めにあっていた。
それをみて、ぼくは少しだけ、誇らしげになった。
その中のひとりが、ぼくの方をみて、にっこりと微笑んでくれた。
アドバイスをくれた彼女だった。
ぼくは軽く頷き、彼女だけには真実を伝えた。
ありがとう、と伝えるように、ぼくは笑いかけた。
彼女も、おめでとう、と言うかのように笑ってくれた。
彼女は口の動作だけで、頑張って。そう言ってくれた。
次は、ぼくは大きく頷きを返し、彼女はその談笑に身を任せた。
その姿をみて、仕事を頑張ろうと思った。
失敗などさせるものか。
その想いは見事に実を結び、大きく華を咲かせた。
23: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:03:43.80 ID:apyY2YgH0
それから4日後の木曜日、ぼくたちは集まっていた。
アイドル合同ライブの成果が、あまりにも大きかったのだ。
以前話したディレクターや、スタッフのみなを集め、酒の席についた。
その中には、社長もちひろさんも同じ席についていた。嬉しかったが、心配だ。
アイドルたちは、アイドル同士で交流をはかり、同じ店の違う席にいる。
年長組のみなは、また別の席で違う話題で盛り上がっていた。
ぼくたちはぼくたちで、番組の成功を祝い、乾杯。
成功の喜びからか、慣れない大規模な呑み会でも、箸は進んだ。
肴が美味だったというのも一因だが、ぼくも喜びを噛み締めていた。
社長は番組の上司と顔を合わせながら談笑している。
彼女は忙しなく、みなに酒をついでいた。
申し訳なくなり、ぼくも隣のスタッフの方に酒を注いだ。
そして、みなのテンションも最高潮になってきたころだった。
前述のディレクターが悪酔いをしていた。
そして、店に響き渡る大きな声で言った。
「千川さんって、すごく美人じゃないですか。彼氏とか、いないんですか」
彼…つまり、ディレクターだが、彼はとても端正な顔立ちだ。
局にいなければ、今頃モデルになっているだろう。
そんな彼が、彼女に声をかけるのか。
けれど、ぼくは彼女の何者でもなく、ただ口を閉じるしかなかった。
24: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:04:19.85 ID:apyY2YgH0
『はい。お付き合いしている方はいません』
「なら、俺!…俺とか、どうですか」
最初はテンションのみで聞いていたのだろうが、二言目のトーンは本物だ。
プロデューサー業をしていれば声の抑揚1つでわかってしまう。
ああ、彼はなんてことを聞いているのだろうか。
『ええと…そう言っていただけるのは、嬉しいです』
ちひろさんは困ったような、けれど嬉しそうな顔で微笑んだ。
ああ、どうして彼にそのような顔を見せるのか。
ぼくは、大人気もなく嫉妬していた。
「じゃあ!あとで、連絡先を交換してもらえませんか」
全員の視線がそこに集まっていた。
彼女はどう答えるのだろうか、という視線が。
ぼくは、内心で神に祈るしかこの想いを抑える方法がない。
『はい。もちろん、いいですよ』
ぼくの祈りは、どうやらそう簡単には通じなかったらしい。
彼女は笑顔で彼と名刺の交換を行っていた。
そしてまた、喧騒は舞い戻った。
…その中に、ぼくの声はなかった。
25: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:04:46.10 ID:apyY2YgH0
8月20日。
あの日から、ぼくはちひろさんに声をかけるのを躊躇った。
大人げない嫉妬が、ぼくのそれを妨げていた。
そして、ぼくはまだ忙しかったから。
夏は、健康的なアイドルの魅力が出るからだ。
仕事に追われ、社長は遅くまで営業に回っていた。
残りは家で片付けよう。腰を上げたときのことだった。
『プロデューサーさん!ちょっと、いいですか』
思わぬちひろさんからの声だ。
何だろう。ミスをしてしまったのだろうか。
『あの…ええと、その』
言いにくそうに手をこすり合わせている。
ぼくは余程重大なことに気がついていないらしい。
『えっと、ぷ、プロデューサーさんさえ、よければ…なんですけど』
『その…今日、お食事…でも、どうでしょうか』
…なんだって?お食事。彼女が、ぼくを。
一瞬彼のことが頭をよぎったが、嬉しいことだ。
ぼくはすぐに笑顔になり、二つ返事でそれを了承した。
『…ああ、よかった』
26: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:05:23.44 ID:apyY2YgH0
『仕事も終わりましたし、行きましょうか』
彼女がそういったとき、奥から声が響いた。
社長も仕事を終えていたようだった。
社長は本当に忙しそうだった。
「ちひろくん。仕事、終わったかな。少し話があるんだが」
「ああ、なに。すぐ済むんだけれど」
ぼくは下で待ってます、と彼女に告げ、下に降りた。
エアコンの風ばかりでは、参ってしまう。
天然ものの空気を吸わなければ。
そして1分ほどでちひろさんは降りてきて、お待たせしました。
待つというほどでもないのだが、彼女はそう言った。
「今日は、ちひろさんが連れて行ってくれるんですか」
『はい!プロデューサーさんと、行きたいお店が見つかって』
プロデューサーさんと、という部分が嬉しい限りだ。
ぼくは歩幅が大きくなりかけたが、思い直した。
彼女の歩幅に合わせなければ。落ち着いて。
ありがとうございます、と彼女は小声で呟いた。
27: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:05:56.72 ID:apyY2YgH0
『今日、プロデューサーさんを誘うの、すごく勇気がいりました』
『あの先日のお酒の席以降、お話することもなかったので』
『ああ、けれど、ここに一緒に来たかったことは本当です』
そんな思いをさせてしまっていたのか。
知らぬ間に、彼女に嫌な思いをさせてしまった。
ぼくは自分の大人気のなさに、大きな恥を覚えていた。
「…すみません。その…ぼくは、なんというか、彼のことが」
『ええと…あのディレクターさん、のことですか』
「はい。それで…」
『…もしかして、その…嫉妬とか、してくれてたんですか』
「………そう、です」
ぼくは、嘘偽りなく述べた。
嫌な思いをさせたのだから、当然だ。
きちんと述べなければ、あまりにも不誠実だ。
『…ふふっ』
『ありがとうございます…嬉しい、です』
『私も…その。少しだけ、嫉妬…していました』
28: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:06:24.26 ID:apyY2YgH0
『ほら。隣のスタッフさんと、楽しそうにお話していたでしょう』
確かにそんなこともあった。
ぼくは、気にも留めていなかった。
あれだけで、彼女はぼくに嫉妬していたのか。
その言葉の意味がわからないほど、ぼくは愚鈍ではなかった。
思い違いであれば、笑い話で済む。
けれど…そうでなければ、お互いが一歩を踏み出せる。
そのためならば、ぼくは可能性に賭けてみることだけを選んでいた。
「…なら、ちひろさん。よかったら、5日後。また、来ませんか」
『はいっ』
『絶対、ですよ』
「ええ」
『楽しみにしていますから』
ああ、ぼくはなんと愚かな勘違いをしていたのだろうか。
恥が恥の範疇を超え、ぼくの中で大きくなった。
それと同時に、胸が幸福感に包まれた。
ぼくは、彼女のおかげで変わることができたのだ。
29: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:06:59.74 ID:apyY2YgH0
5日後のデートの約束を取り付けたぼくは、思案していた。
思い違いでなければ、彼女も、ぼくのことを。
ならば、さらに一歩を踏み出すきっかけを作らなければ。
ぼくは彼女と隣を歩いて、共に人生を歩んでいきたいと考えている。
そのためには、ぼくは彼女に想いを伝えねばならない。
どうするべきだろうか。やりかたなど、わからない。
違う。やりかたなど、人によって異なるのだ。
問題は、きちんと想いを伝えることだ。
ぼくは最大限の人脈と知識を振り絞り、考えをまとめた。
担当のアイドルにも、女性うけのいい店を尋ねた。
引き続き頑張ってとまた応援してもらった。
彼女には一生頭が上がりそうにない。
ぼくはなかなか値が張る店を予約し、準備を整えた。
あとは、5日後のデートで、約束を取り付ける。
そして、そのデートで、ぼくは、彼女に。
ぼくらは、共に歩めるだろうか。
8月31日。そこで、全てが決まるのだから。
30: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:07:26.68 ID:apyY2YgH0
8月25日がやってきた。
今日は彼女と並んでウィンドウショッピングをしていた。
時刻は夕方、今は18時を回ったぐらいだ。
相変わらず服のセンスがいい。
ぼくはそれをみて、彼女に教えを請おうと思った。
「ちひろさん。よかったら、ぼくの服を選んでもらえませんか」
『はい、いいですよ。どんな服がお好みですか』
敬語なので店員のような口調だが、最大限の配慮を感じられる。
ぼくはちひろさんの選んだ服なら、と端的に伝えた。
そうすると、なんだか頬を紅潮させていた。
『え、ええと…それなら、これとか。プロデューサーさん、格好いいですから』
『あ、こういうのも、似合うんじゃないでしょうか』
『これもいいかも…』
彼女は瞳をきらきらさせながら、ぼくに服を選んでくれた。
いくつかそれを購入したあと、たまたま良さそうな店を見つけ、入った。
場所が違えど、ぼくたちはもう、酒の力がなくとも饒舌に語らうことができていた。
そして、ぼくは、約束を取り付けた。
31: ◆auvPFY1.jw:2013/04/26(金) 15:07:56.14 ID:apyY2YgH0
「ちひろさん。8月31日…夜、開けておいてください」
強い意志を含んだ言葉は、伺うことを知らなかった。
ぼくにとって、これは人生の分岐点なのだ。
言い繕っている暇すら、ないのだ。
『…わかりました。お気に入りの服で、行きますから』
彼女は察しがよかった。きっと、気付いているのだろう。
その後から、ぼくの顔をちらちらをみては、すぐに逸らす。
ぼくも同じようなことをしていたので、人のことは言えない。
時間と場所を端的に伝え、ぼくは約束を取り付けた。
なんだか互いに照れくさい雰囲気になってしまい、箸が進まなかった。
けれど、別にいやな雰囲気でもなく、言葉がなくてもよかった。
ただ、氷を揺らしながら、ぼくたちは笑いあった。
店を出て、夏に珍しい冷たい風が吹き抜けると、酔いもきれいにさめていた。
そしてまた、ぼくたちは背を向け、ネオンの中に消えていく。
けれど…ああ、そうだ。次、ぼくたちが帰るとき。
肩を並べて、同じ方向に消えていければ。
ぼくは、それだけを願った。
42: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:34:01.33 ID:jHXJVv+b0
その後の5日間は、あまりにも忙しなくすぎていった。
以前のライブイベントの成功もあり、仕事が多々舞い込んだ。
アイドルたちも喜び、心から仕事を楽しんでいた。
ぼくも、仕事に熱が入っていた。
そんなこともあり、ぼくは前日になって慌て始めた。
店と時間は決まっている。けれど、どんな服を着ていけば。
そして、どんなふうにエスコートし、どんなふうに告白をするべきか。
ロマンティックなものの方がよいのだろうか。
ぼくは、さらに背伸びをするべきなのだろうか。
ぼくは思い直した。ぼくはぼくらしく、だ。
ぼくは彼女の隣に並びたくて、努力した。
けれど…これから隣を歩くことになったなら。
そう考えると、計画も何もないが、1つの決心が生まれていた。
永遠と思われるような夏が、もうすぐそこで終わりを迎える。
ぼくは…その前に、この夏を全力で過ごすのだ。
安堵と共に、ぼくは眠りに落ちた。
また、同じ夢をみていた。
43: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:34:31.31 ID:jHXJVv+b0
8月31日。
ぼくは早朝に出社し、ちひろさんと共に仕事を終えた。
…担当アイドルに、先に全てを話しておいた。
この礼は、トップアイドルで返す。
彼女は何も言わず、ぼくに微笑みかけてくれた。
それだけで十分だ。きっと、成功させてみせる。
一度ちひろさんと別れ、改めて待ち合わせをしていた。
ぼくも家で身支度を整え、細心の注意を払って家を出ていた。
ぼくは1時間も前に着いていたのだが、それでも彼女はそこにいた。
ああ、楽しみにしてくれていたのだろうか。
それは定かではないが、そう思うほかなかった。
ぼくは心からの笑顔で、彼女の隣に並び、声をかけた。
「すみません。お待たせしてしまって」
『いえ。私も、早く着いてしまったもので』
「今日は、いつも以上に似合っています」
『ふふっ…よかった。お気に入りですから』
4月には、このような関係になるなど、思いもしなかった。
ただ、普通に日々を過ごし、普通に生きていく。
そう思っていたのは、前のことだ。
今のぼくたちは、未来に向かって歩き出していた。
44: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:34:58.33 ID:jHXJVv+b0
喉はからからに乾いていた。
予定時刻に、予約していたレストランへと足を踏み入れた。
窓際の一角。夜景も鮮やかに光を放ち始めている。
ドレスコードもあるような店だった。
『プロデューサーさん、私の選んだ服、着てくださってる』
「ええ。選んで頂きましたし、気に入っていますから」
『そう言っていただけると、嬉しいです』
注文をしなくとも、期を見計らって食事が運ばれる。
このような店ははじめてではなかった。
芸能界の付き合いに感謝だ。
マナーも作法もひと通り覚えていたし、苦しむこともなかった。
ただ、美味しいですね。そのような会話が窓辺に響く。
踏み込んだ会話など、そこには必要なかった。
このしっとりとした雰囲気が好きだ。
あまり口にすることのない赤ワインを転がし、味を確かめる。
からからに乾いていた喉には、程よいものだった。
酒の効果以上に、ぼくの顔は赤かった。
コースを終え、ぼくは言った。
「お話が、あるんです」
45: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:35:25.36 ID:jHXJVv+b0
『…はい。待っていました』
そうだ。ぼくは、伝えるのだ。
彼女に、ぼくの全ての想いを。
「…ぼくは」
「ぼくは…」
上手く口が回らない。
あの饒舌な舌はどこへ。
『はい』
たった一言を口にするだけではないか。
ああ、ぼくの舌よ。回ってくれ。
「ぼくは、ちひろさんのことが」
ぼくは、伝えると決めたのだ。
…それが、どう、転んだとしても。
この気持ちは、抑えられないのだから。
「ぼくは、ちひろさんのことが―――――」
「―――――好き、です」
46: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:36:06.42 ID:jHXJVv+b0
『………』
『……は』
『はい…』
『わた…私も、プロデューサーさんのことが、好き、です』
『だから―――』
「ぼくと、お付き合いしてください」
『はい…はいっ』
『よろしく、お願いします』
『プロデューサーさん』
『よろしく、お願いしますっ…』
彼女はそう言って、涙を流しながら微笑んだ。
ぼくも泣きそうであったが、表情を引き締め、笑った。
ああ、ぼくの夏は、まだまだ終わりは見えないらしい。よかった。
ぼくの夏と、彼女の夏を重ねて。
ぼくは、彼女に恋をして。
彼女は、ぼくに恋をして。
夏の上に、夏を重ねて。
ぼくは、彼女に、愛を誓った。
47: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:36:36.09 ID:jHXJVv+b0
彼女と出会って、2度目の夏が訪れようとしていた。
1年と4ヶ月ほどだろうか。今も変わらぬ関係が続いている。
けれど、彼女の口ぶりは変わらない。今も敬語だ。
それが彼女らしい、とも言えるのだが。
7月31日。
最近、久しく彼女と呑みに行っていない。
以前までは、よく行っていた。
誘うことにしようか。
ああ、けれど…事務所にはもう誰も残ってはいない。
事務作業に、手間取ってしまったためだ。やってしまった。
ぼくは最後に事務所の施錠をし、明かりを消して、帰路についた。
翌日、ぼくは朝一番に出社し、契約内容の確認をしていた。
そこに彼女がやってきて、おはようございます、と微笑んだ。
ああ。今日も彼女は美しい。今、誘うべきだろうか。
けれど、結構な量の仕事が残っている。
仕事を終えてから、彼女を誘うことにしよう。
そう思ってはいたのだが、上手くいかなかった。
彼女は、先に挨拶を済ませ、そそくさと帰ってしまった。
何か…用事でもあるのだろうか。ぼくは、かなりがっかりとしていた。
ぼくに、小さな不安の種が生まれた。
48: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:37:01.64 ID:jHXJVv+b0
ぼくはその種に、知らぬ間に水を撒いていた。
それからは、ぼくはとある企画に精を出していた為、時間がなかった。
あまりにも雑多なぼくのデスクの上には困ってしまう。
ああ、彼女がいれば、お願いできるのに。
その4日後から、ぼくは事務所の変化に気がついていた。
けれど…あえて、口には出さなかった。そうだとすれば。
それからも忙しなく企画を整え、落ち着いたのがそれからさらに5日後だ。
ぼくは、精神的にも、肉体的にも疲弊しており、どこか彼女に癒しを求めていたと思う。
その日の昼、ぼくは昼食を買いに行った帰りに、彼女と食事を共にした。
健康には気をつけてくださいよ、と釘をさされてしまった。
相変わらず愛らしいその仕草は、微笑ましい。
昼食を終え、彼女がコーヒーを入れてくれた。
ぼくの眠気を察してか、無糖のコーヒーをいれてくれた。
本当に気が利く。今だけは、ぼくがそんな彼女を独占しているのだ。
14時頃、ぼくは彼女に呑みに行きたいという旨を伝えた。
けれど…その反応は、あまりよくはなかった。
彼女は申し訳なさそうに言った。
『ええと…すみません。私、その日には先約があって』
49: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:37:30.08 ID:jHXJVv+b0
「なら…また、今度」
『はい、すみません。誘っていただいて嬉しいです』
『うん、ぼくも楽しみにしているから』
「はい!」
ひとときだけ、ぼくの不安の種は身を潜めた。
…けれど、これは本当にひとときだけだった。
その5日後、ぼくは仕事の呑み会に誘われた。
事務所のみなも、おごりだとわかると声を上げて喜んだ。
彼女らとは私的に出かける機会もないし、こういうときくらいはいい。
ぼくは相席の方と、趣味について語り合った。
ぼくにはあまり趣味がなかったので、困ってしまった。
相席の方は、ぼくのスーツを褒めてくれた。センスがいいと言われた。
みなさん、賑やかでうらやましい。そう言ってくれた。
もちろん。ぼくはみなを尊敬しているし、自慢できるほどだ。
とはいえ、片方ぼくは、いまいち何もないのだが。
ぼくは彼と語り合いをし、酒を楽しんだ。
にぎやかさにもみ消されそうになった声を、ぼくは、聞いてしまった。
…彼氏はいない、と明言する、彼女の姿を。その顔を。
ぼくの不安の種は、華を咲かせた。
50: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:38:39.65 ID:jHXJVv+b0
ぼくは事の真相を確かめるため、彼女を誘うと決意した。
そんなはずはないだろう。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
ぼくは…ただ、その問いの答えを探した。
その5日後、ぼくは彼女を酒の席へと誘ったが、また断られてしまった。
すみません、とそう言い残し、ぼくの前から立ち去った。
ああ、やはり。彼女は。そういうことか。
先約?先約か。なるほど。
ぼくはさらに3日後、彼女を誘った。
するとあっさり了承してくれ、楽しみにしています、と告げられた。
その微笑みは、ぼく以外の誰に向けているのだろうか。
ぼくは、それを尋ねることはできなかった。
1週間後…ぼくは、彼女から答えを得る。
そうすれば、ぼくのこの心のつかえもとれるはずだ。
そして、ぼくはきれいさっぱり、彼女との関係を…終わらせる。
…ぼくは、気付いていたのだ。
度重なる誘いを断るその理由を。
交際している男性などいない、と言った理由を。
ああ、ぼくは…どんな顔をして、彼女と会えばいいのだろう。
全ては1週間後だ。
51: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:39:05.52 ID:jHXJVv+b0
それから3日後の金曜日は、彼女は嬉々とした表情で出社した。
ぼくは彼女と出かけたりなどしていない。それは、つまり。
ああ、考えるのはよそう。全ては彼女から。
新たな1歩を祝福するのだ。
考えが巡るのと同じ速さで、ぼくの残りの3日が過ぎ、当日になった。
ぼくは彼女とよく来ていたバーに腰をおろし、隣に座った。
彼女は申し訳なさそうな顔で佇んでいた。
わかっているのだろう。
けれど…それが、ぼくのけじめというものだ。
ぼくは、度数の強い酒を一気に飲み干し、グラスはからんと音を立てた。
それがぼくの心の現状を表すかのように、氷が揺れた。
確かに、ぼくは心が揺れている。
できることなら…ぼくは、彼女と、また。
違う。その感情は振り払わねばならない。
真実を知ったとしても、ぼくはいつも通りの顔で過ごす。
そう決めたはずだ。これは、祝福すべきことではないか。その通りだ。
ぼくは、口を開いた。
52: ◆auvPFY1.jw:2013/04/27(土) 11:41:06.44 ID:jHXJVv+b0
「最近、よく…先約が」
『…はい』
「それは…つまり」
『…その、通りです…』
『好きな人が、できたんです』
あのネックレスも、もうつけてはいなかった。
彼女の首元は、固くネクタイで結ばれていた。
それが、暗に答えを示していると感じた。
なら、この関係は断ち切ろう。
彼女の口から聞いておきたかったのだ。
ぼくは、最後に1つだけ、彼女にお願いをした。
「事務所のみなと行くときは…よかったら、付き合ってもらえたら」
『はい。それは、もちろんです』
うん。それだけ聞ければ、十分だ。
もうすぐ、夏は終わろうとしている。
…これは、真夏の夜の、夢だったのだ。
ぼくはひとときでも、とても楽しい夢をみた。
永遠の別れというわけではない。
ただ、呑みに行く機会がなくなるだけだ。
けれど、ぼくは、なんだか…それが寂しかった。
8月30日の夜、ぼくは夢を終わらせる。
ぼくはそっとグラスを置いて、彼女との思い出を巡らせた。
苦手な事務作業に手を貸してもらったこと。
勇気を出して彼女を誘ったこと。
1年間、共に彼女と2人だけでやってきたことを。
にっこりと笑って、彼女は付き合ってくれたこと。
このバーに、よく足を運んだことを。
そして、ぼくは言った。
「じゃあ、また、事務所で。さようなら」
彼女も名残惜しそうに、ぼくを見て、言った。
『…はい。ありがとうございました。さようなら』
『社長』
おわり
55:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/04/27(土) 12:44:01.93 ID:ge5l/ZW70
乙
また騙されたorz